まんまる様

日本の海難事故による死亡者は年間500人を超える。そして、犠牲者のほとんどは数日中に発見され、遺族のもとへと返される。しかし、まれに捜索隊の捜索に引っかからず、何週間もたってから浜辺に打ち上げられる遺体も存在する。魚や蟹に食われ、岩場にぶつかり、長いあいだ海水にさらされた遺体は、生前の姿をほとんど残していないという。

私が育った海辺の町では、そうした遺体のことを「まんまる様」と呼んでいた。もっとも、その言葉を口にしてよいのは昼間だけだった。日が沈んでから名前を呼ぶと、まんまる様が自分を呼んだ人間を探しに来る。

祖母は、幼い私に何度もそう言い聞かせた。

「嵐の次の日は浜へ行っちゃいかん。もし白くて丸いものを見つけても、絶対に声を出すな。名前を呼ばれても返事をするな」

なぜ丸いのかと尋ねても、祖母は答えなかった。ただ、唇を固く結び、海の方角を見つめるだけだった。

私が小学六年生だった年、大きな台風が町を襲った。夜通し吹き荒れた風は漁船をひっくり返し、防波堤の一部を崩した。翌朝には雨もやみ、空には雲一つなかった。

私は幼なじみのAと一緒に、学校へ向かうふりをして浜へ出た。砂浜には流木や漁網、割れた浮き、外国語の書かれた容器などが散乱していた。宝探しのような気分で漂着物を拾っていたAが、突然立ち止まった。

「なあ、あれ何だ?」

波打ち際に、白いものがあった。最初は、大きな発泡スチロールの塊だと思った。だが、それは波が引いても沖へ戻らなかった。むしろ波に逆らうように、ゆっくりと砂浜の上を転がってきた。

直径は一メートルほど。表面には白い皮のようなものが張りつき、黒い海藻が髪の毛のように絡んでいた。完全な球体ではなく、ところどころに指のような細い突起があり、波に揺れるたび、握ったり開いたりしていた。

祖母の言葉が頭をよぎった。

白くて、丸いもの。

私はAの腕をつかんだ。

「帰ろう」

ところが、Aはその場から動かなかった。そればかりか、「何だ、あれ? もっと近くで見てみようぜ」と言って、丸いものを目がけて一目散に駆けていった。私は怖いと思いながらも、Aを置いて逃げることができず、そのあとを追った。

近づくと、丸いものの中央に黒い穴が開いていた。穴はゆっくり横に広がり、人間の口のような形になった。

「……A」

男のような声で、Aの名前を呼んだ。Aと私の顔から笑みが消えた。それは、前年に海で亡くなったAの父親の声だった。

「A。迎えに来たぞ」

丸いものが回転しながら、私たちとの距離をゆっくり縮めてきた。

「父ちゃん?」

Aが答えた。その瞬間、丸いものの表面に無数のくぼみが浮かんだ。

目、鼻、口。

水の中から顔を押しつけているような形が、現れては消えた。その中には、Aの父親らしき顔もあった。私はAの腕を引いた。

「逃げよう、A!」

だが、Aは信じられないほど強い力で私の手を振りほどいた。

「父ちゃんがいる」

そう言って、Aは丸いものの前にしゃがみ込むと、楽しそうに会話を始めた。その不気味な様子を見て、私は逃げた。振り返ることもできず、祖母の家まで走った。

事情を聞いた祖母は、町の男たちを集めて浜へ向かった。男たちは全員、白い布で顔を覆い、手には武器になりそうな道具を持っていた。私も行こうとしたが、祖母に「部屋から出るな!」と言われ、おとなしく従って自室に入った。

「暗くなるまで、何が聞こえても返事をするな」

そう言い残し、祖母は外から鍵をかけた。

どれくらい時間がたっただろう。やがて部屋の外から、何かが床をこする音が聞こえてきた。

ずる……ずる……。

湿った重いものを引きずるような音だった。それは部屋の前の廊下を、何度も行き来しているようだった。私は怖くて、布団の中でぶるぶる震えていた。

やがて、その音がドアのすぐ向こうで止まった。

「B……」

Aの声だった。私は両手で耳をふさいだ。

「B、開けてくれ。父ちゃんも一緒なんだ」

ドアの下の隙間から、冷たい液体が染み込んできた。生臭いにおいが部屋中に広がった。

「B」

今度は祖父の声だった。祖父は台風が来る三年前、病気で亡くなっていた。

「そこにいるんだろう?」

部屋全体が、波に揺られているかのように大きく傾いた。畳の下から水の音がした。まるで、家ごと海の上に浮かんでいるようだった。

「返事をしろ」

私は目を閉じた。

そのとき、耳元で声がした。

「返事をするな。そいつらは、お前の名前を取りに来た」

目を開けたが、そこには誰もいなかった。今度は、はっきりと聞こえた。声は背後の押し入れから聞こえていた。祖母の声だった。

浜へ向かったはずの祖母が、押し入れの中にいるはずはない。それでも、外にいるものから隠れているのかもしれないと思い、私は押し入れに近づいた。

「ばあちゃん?」

そう呼びそうになり、慌てて口を押さえた。

押し入れの襖が、数センチだけ開いていた。隙間の奥は真っ暗だった。その暗闇の中に、片方の目が浮かんでいた。

祖母の目ではなかった。

それはAの目だった。

「B、助けてくれ。父ちゃんがおかしいんだ。俺を食べようとしてる」

押し入れの中から、Aの声がした。襖の隙間から、Aの指が伸びてきた。爪の間には砂が詰まり、皮膚から海水が滴っていた。

「ここを開けてくれ。早く」

私は後ずさった。ドアの外にもAがいる。押し入れの中にもAがいる。では、浜辺に残してきたAは何だったのか。

そのとき、ドアの向こうから祖父の声がした。

「B。そっちにいるのは偽物だ」

押し入れの中のAが答えた。

「違う。外にいるやつが偽物だ」

「B、開けなさい」

「B、こっちに来い」

「返事をしろ」

「助けてくれ」

二つの声は次第に大きくなり、やがて何十人もの声が重なって聞こえ始めた。父の声。母の声。学校の先生の声。近所の人たちの声。そして、私自身の声。

「B」

部屋中から名前を呼ばれた。私は両手で口を押さえたまま、布団の上にうずくまった。

すると、押し入れの襖がゆっくりと開いた。中から、白くて丸いものが転がり出てきた。あの浜辺で見たものよりずっと小さく、人間の頭ほどの大きさだった。

表面には無数の顔が浮かんでいた。

A。

Aの父親。

祖父。

そして、私。

丸いものに浮かんだ私の顔が、にやりと笑った。

「お前は、誰だ?」

自分と同じ声で尋ねられた。

答えてはいけない。分かっていた。それなのに、口を押さえていたはずの私の指が、一本ずつ勝手に開いていった。

「僕は……」

そこから先の記憶はない。

翌朝、私は浜辺で倒れているところを発見された。Aは行方不明になった。何日にもわたって捜索が続けられたが、遺体は見つからなかった。町の人々は、Aは高波にさらわれたのだろうと言った。

けれど祖母だけは、浜辺から戻ってきた私を一目見るなり、その場に崩れ落ちた。

「Bをどこへやった」

祖母は震える声でそう尋ねた。私が何を言っても、信じてもらえなかった。それから祖母は、二度と私の名前を呼ばなくなった。

あの出来事から二十年がたった。私は故郷を離れ、海のない町で暮らしている。日常生活に困ることはない。食事もできる。眠ることもできる。子どものころの記憶も、すべて残っている。

ただ、一つだけ、おかしなことがある。

私は、鏡に映る自分の顔を見ることができない。

鏡の中にはいつも、白く膨れた丸いものが映っている。その表面には、AやAの父親、祖父、そして見知らぬ大勢の顔が浮かんでは消えている。その中には、小学六年生のころの私の顔もある。

鏡の中の私は、いつも必死に何かを訴えている。声は聞こえない。だが、唇の動きだけは読み取れる。

——返事をするな。

先週、祖母が亡くなったという知らせが届いた。葬儀には出なかった。故郷へ戻るつもりもない。

ところが昨夜から、部屋の床が少しずつ濡れ始めている。窓を閉めても、どこからか波の音が聞こえる。

そして今、玄関の向こうで誰かが私の名前を呼んでいる。

祖母の声だ。

「B。迎えに来たよ」

鏡の中で、小学生の私が激しく首を振っている。

「返事をするんじゃない」

祖母の声が続いた。

「今度こそ、一緒に海へ帰ろう」

私は返事をしないよう、両手で口をふさいでいる。けれど、口を閉じているはずなのに、喉の奥から別の声が漏れ始めている。

低く、濡れた、大勢の人間が重なったような声で。

「はい」

と。

コメントをどうぞ